11月30日 Day3 火炎山は凄かった! 鶯歌→台中


8時半に起きた。 

朝早く出発して昨日の遅れを取り戻したかったが鶯歌で新しいサドルを購入する必要があった。

いつも専用サドルを保管してもらっていたのだが、コロナ禍にオレのサドルはどこかに消えた。

そこで楽奇単車が急遽取り付けたサドルとオレのケツの相性は最悪だった。

昨日はそのせいで何度も立ち止まり隊列を乱してしまったし、尻の皮膚の一部はめくれて出血していた。

「赤い彗星」ことシャア・アズナブルが専用にこだわる理由はその辺にあるのではないか?

 

10時オレ専用のサドルを探しに鶯歌の街はずれにあるGIANT鶯歌店に行った。

店の前には老化著しく二人でようやく一人前未満のおばちゃんがで瞑想していた。

「店員はいないの?」という問いかけに対し「あん?」と返してきたからそれ以上追及するのを諦めた。

 

しかし開店時間を10分過ぎても店主は現れないので、オレは店の中に入りサドルを物色した。

あいにく時間がない。

最悪この頼りないおばちゃん二人にそれなりの金を握らせ立ち去るしかないと思っていた矢先店主は二階から下りてきた。

 

いたんかい!!

 

オレの選んだサドルは800元だそう。 おばちゃん二人に1000元握らせて立ち去る矢先だったので200元得をした。

急いで戻り仁史君と合流し鶯歌駅へ向かった。

鶯歌から苑裡(ユァンリー)まで電車に乗ることにした。

ただここでトラブルがあった。

台湾版みどりの窓口でオレは「大人2人、フェンリーまで」と要求

すると駅員は「フェンリーってどこ?」と聞き返す。

 

 ×

 

駅員は呆れ顔で台湾駅名地図をガラス越しに広げてきた。

行き先を指させ という訳だ。

 

オレはガラスが割れない程度に 苑裡を「フェンリー」 と言って指さした。

 

駅員は笑いながらお兄さんそれは「ユァンリー」って読むのよっと。

オレは第5回と6回の台湾縦断でもここ鶯歌から苑裡まで電車を使っていてその時は何も問題なく乗車券は買えたから過去の自分は苑裡を正しくユァンリーと読んでいたはず・・

コロナ禍の3年でなぜユァンリーがフェンリーになったのか???

そもそもフェンリーってなんだ???

 

フェンリー それはたぶん 鳳梨フェンリー パイナップルの事だ。

 

我々謝謝台湾隊ではコロナ禍の2021年に日本でもできる恩返しとして行き場(輸出先)を失った台湾パイナップル販拡運動「台湾パイナップル100個あげます」

をやった。

その際台湾語でパイナップルは 鳳梨フェンリー という事を知った。

 

そういった経緯で苑裡ユァンリーが 鳳梨フェンリーになったらしい・・

 

「大人2枚 パイナップル」と必死だった46歳 お見事。

14時電車は苑裡駅に着いた。

これからGIANT本社と宝泉食品にお礼しながら台中まで走る。

途中自分達へのご褒美に火炎山の絶景スポットにも行った。

大安渓という川の堤防が仕切りの役割をはたし火炎山は徐々に見えてくるのではなく、いきなりガツンとその姿を現した! 

遠い昔、豪雨と地震が重なり巨大な土砂崩れがこの地であった。

そしてむき出しになった地表面にはなんだかの理由があって植物が生えなかった。

それが今に至るんだろう。

辺りにはタキシードとウェディングドレスを着たカップルが7組いた。

統計的にどうせこの内の3組は離婚する。

せいぜい幸せだった今を写真に残すがよい。

 

雄大な自然美と他人の幸せをこれほどまで見せつけられるとは思ってもいなかった。

19時台中駅前に到着、この日は公園に野宿する予定を撤回しいつものチャンスホテルに投宿 111000元 

相変わらずチャンスホテルは素晴らしい日本語ペラペラの女子社員は以前北海道の知床でワーホリをしていたそう。

 

この晩は近くのいい感じに廃れた飯屋で飲む事にした。

台中に来るたびに寄る店だから何度も来ているのだけど、今回が廃れ感MAXだった。 なんと店の奥ではホームレスが寝ているし、客層もきわどい。

おまけにメニュー掲示板は 小学校低学年の夏休み研究レベル だ!

 

店先の通りを小走りに通るのは仕事を上がった娼婦達

それらと関係を持ったと思われる男達もこの店の料理をテイクアウトしていく。

客層の9割が風俗関係で残り1割がホームレスだろう。

 

風俗関係者の多い料理店 名前はまだない。

 

オレ達はいろんなものを食べ飲み そして酔い。 酔った。 酔い過ぎた。


12月1日 Day4 昨夜の記憶がない 台中→西螺

7時位に仁史君からのメールで起きた。

メールには昨夜の宴画材が添付されていたが酷い酔っぱらいの醜態オンパレードだった。

机にはセブンイレブンの麻婆豆腐丼が食べつくされた状態であった。

たぶん美味しかった気がする。

まだ酔っているけどこの日は9時出発だったから起きた。

仁史君が送ってきた昨夜の画像によれば我々はホームレス及びそれに準ずる人達と仲良く飲んでいた。

そしてチャンスホテルに戻ってきた後もオレの部屋で飲み会は続いたようで最後2人で撮ったノリノリな写真は023分に撮られていた。

たぶん2時位まで飲んだ感じがする。

大川興業の大川総裁@台中
大川興業の大川総裁@台中

我々はまず旧台中駅に行った。

これは日本統治時代に日本人が建てた駅舎で、新しい台中駅はその隣にある。

駅舎というのはその街の顔でもある。そこには市民の数々の思い出や歴史が詰まっている。一言で言えば文化財だ。

日本では経年劣化に合わせスクラップ&ディベロップメントされ駅舎は新しくなる。

思い出や文化財より、利便性や耐震性が優先される。

これが台湾はどうかというと徹底した「保存」なんだ。

昔日本人が作った駅舎に親しみや愛着を感じて遺してくれる。

ここ台中もそうだし、高雄でも古い駅舎を遺したし、新竹や嘉義では未だに日本統治時代の駅舎を使ってくれている。

 

そんな事を仁史君に説明しようとしていたらなんと大川興業の大川総裁と遭遇した!  

一緒に写真を撮らせてもらった。

 

我々は台中市内を抜けレインボービレッジへ向かった。

コロナ禍で営業自粛中なのは知っていたが、初台湾の仁史君に遠くからでも見せたかった。

いつもはインスタ映えを狙う観光客がウヨウヨいるレインボービレッジは外壁に覆われおりその中を窺い知る事もできないので46歳のオジサン二人は女風呂を覗くようにレインボービレッジを覗いた。

 

それはそうと街中何処へ行っても政治家の巨大広告だらけである。

我々が台湾に入る2日前台湾全土で統一地方選があったそう。

台湾での選挙は日本以上のお祭りだと思う。

まず限度額があるにせよ有権者に物品の贈与が認められているし、独自の事情を抱えた小さな国だから国民と政治家との距離が異常に近い。

「それが民主主義だ」と言えば終わりだけど、同じ民主主義国家の日本人からみても台湾の政治は 超ポピュリズム だ。

事実上の二大政党制でそれぞれ方向性が違うから既得権益派、革新派、独立維持派、大陸迎合主義派などが、利害の一致した候補の応援を死に物狂いでする。

日本にはない台湾独自の政治熱はだいたいそんな原因があると思う。

12時ジャスト我々は彰化に到着。

お目当ての猫鼠麺はお休みだったのでもう一つの名物 肉圓 ローユェン こと バーワンを食べた。

仁史君はパクチー星人だから北海道のいくら丼のようにパクチーを乗っけ1日分の野菜を今ここで摂取する肉圓にアレンジしていた。

モチモチ、ヌタヌタ、メチャメチャ、肉圓の食感を擬態語で表現してみた。

食後に無料のスープを足して飲み干し、心地よい爽快感。

彰化の名物は猫鼠麺といい肉圓といい美味しい。

隠れた美食の街と言えると思う。

 

ちなみにだが6年前の第1回縦断ではここ彰化でとんでもない事件に巻き込まれた。

 

食べ終わり店を出たその時、どこかで見かけて人が・・

確かあの人は台湾ジャーナリストの片倉さんでは??

恐る恐るお伺いするとご本人で、共通の知人の話で盛り上がったりした。

世間は広いようで狭い。

今朝大川総裁にあったばかりなのに昼には片倉佳史さんと会った。

思春期に大川興業に入社したい時期があったし、片倉さんの著書も何冊か持っている。

ちなみに台湾を旅する前に片倉さんの著書を読んでおけばより深い台湾旅になります。

14時ちょっと前、大好きな町 鹿港 に着いた。

この町は町全体がレトロなままなのと猫が多くて気に入っている。

3年ぶりに馴染みの鹿港ネコンズを探したが残念・・

あいつらとは待ち合わせはできないし肉まんを食べて西螺へ向かった。

我々は用水路沿いのサイクリングロードを快走し17西螺に到着。

西螺と言えば西螺大橋という赤い橋と醤油が有名だがこの日我々を驚愕させたのは

超巨大いんげんのほうで、植物のサイズ感ではなかった。

西螺では宿探しに苦労した。

そもそも宿自体が少ない上に「自主防疫7日間以内的旅客」の真っ只中。 

バス、トイレが独立したホテルか野宿の2つしか選択肢がない。

途方に暮れる我々を見て日本語が上手な女性(メールありがとうございます)が声を掛けてくれ、とんとん拍子で宿が決まった。

 

紹介して頂いたのは紅橋民宿というれっきとしたホテルで自主防疫期間の我々でも泊まれる規格だった。

確か1800元。

ホテル入口には歴代の自転車旅行者による書き込みで埋め尽くされていた。

環島の聖地宿がこんな所にあったとは・・・

フロントの女性もとても感じの良い人だった。

 

ここ西螺でも浴びるように飲み、仁史君は犬の糞を3回も踏んでいた。

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